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「たゞし、預かるだけだよ。この分が残つている間はいくら後から来ても貰はんよ。いゝかね」
突然、練吉の顔には一種の生気が、何となくもう一人の練吉といつた風なものを思はせる疳の気配、子供染みた我儘さが顔にさし、あのひつきりのない目瞬またゝきが止んで、切れの長い目が眼鏡の奥でぢつと線を引いた。
「患者さんですよう」
練吉は時々、「うむ、うむ」と呟き、房一の方をふりかへつては「ね?」と、同意を求めるやうに云つていた。
さういふことで、彼は先づ一段の希望をかなへることができた。彼は二年間東京で法律書生として苦学したが、中途で方針をかへて医学をやることにした。これには例の伯父の意見が大分加はつていた。しかしこれも中途で兵役にとられたため、一寸一頓挫を来たした。彼は看護卒を志願した。二年の後彼は又東京へ出て来た。そこで様々な生活を経験した末、又もや医学をやる決心をかためた。その前後が彼としては一番危険な時期であつた。株式店につとめてみたり保険の外交員を志したり、それは自分の望みがいたる所で達しがたいと思はれる時の不安定な、投げやりにしてみたりとび立つやうな焦燥の念に駆られたりする、そして、様々な名誉や成功やが赭々あか/\と輝いて見える此の世間といふものの裏、物には必らず裏があるといふ事実をはじめて覚つて、そのために自分が素晴らしく大人になつたやうな気持にならされ、自分には世の中の裏を見抜く眼があるのだと過信する時期の、非常に不従順な暗い数々の失錯や不始末をやつた。その頃の彼は一体どんな職業に従事しているか解らないやうな風貌と服装をしていて、仲間のほかには誰も彼をあたり前な眼つきでは見なかつたし、彼の方でもそれを太々しく白眼視して過した。だが、仲間の一人が或る詐欺行為で警察に引つぱられて、彼も危ふくその連累を蒙るところであつたが辛うじて免かれた、その時以来彼はそんな生活に見切りをつけた。様々な関係から足を洗ふために、彼は一度故郷に帰つた。短い滞在であつたが、久しぶりに見る近親の温かさや故郷の山河が何年かの放浪生活のうちで疲れ汚がされ眠らされた彼の魂、成功の野心と正しい生活への慾望とをよびさました。
わたしが若いときに箱根に滞在していると、両隣ともに東京の下町の家族づれで、ほとんど毎日のように色々の物をくれるので、頗すこぶる有難迷惑に感じたことがある。交際好きの人になると、自分の両隣ばかりでなく、他の座敷の客といつの間にか懇意になって、そことも交際しているのがある。温泉場で懇意になったのが縁となって、帰京の後にも交際をつづけ、果はては縁組みをして親類になったなどというのもある。
黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
男は眼を閉ぢたまゝだつた。
結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。
房一は傷を調べにかゝつた。後頭部にもあつた。身体にへばりついたシャツをはぎとると、背部に最もひどい傷があつた、それは紛まがふところのない刃物による刺傷だつた。新しい血がはぎとられたシャツの下から、瞬またゝく間にふき出し、滴したゝり落ちた。
喜作と別れてから、房一は歩きにくい足もとの円石に目を落して何となく考へこんだ風に歩いて行つた。
盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつているやうな無邪気さは消えていた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。
盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いていた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいていた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じていた。